So for the introduction, I write as below. And I thought I might be able to elaborate a bit more, along with the books that I read recently. Unlike tech, I believe there can't be right or wrong, its just how you perceive things which is subject to change. But I believe that's the fun part of life and where learning comes in! I believe what I'm about to write down is well summarized in below quote .... 個人は...世界において起こっていることを把握し...時代状況のなかに自分自身を位置づけることによって...社会における個人史と歴史とが交差するささやかな地点として彼ら自身において何が生じているのか...自分固有の経験とは何かを理解し、その行く末を見定めることができるようになる - 社会学的想像力 ... and its for the reason below. 歴史家は彼自身の時代の人間なのであって、人間存在というものの条件によってその時代に縛りつけられているのです - 歴史とは何か One such interesting example can be seen in the reason why 19th centry's historians were uninterested in 歴史哲学. 19世紀は、自信とオプティミズムとが滲み出た居心地のよい時期でした...歴史上の事実それ自身が、より高いものへ向う恵み深く且つ明らかに限りのない進歩という至高の事実を立証するものと見られていたのです...ランケは、自分が事実の方を心配していれば、神様が歴史の意味を心配してくれるものと敬虔に信じておりました - 歴史とは何か Analogy of that is the discussion surrounding Weber's 方法論 in America. 方法論への関心は、当初のアメリカのウェーバー受容では、それほど高くはなかった...方法論を論じるということは、それまで当たり前に行われてきたことの当たり前さを問うということ...資本主義とデモクラシーへの安定が信頼が存在しているところで、深刻な方法論的な問い直しがおこなわれることはなかった..."科学としての政治学"を標榜していたアメリカ政治学では、事実の重視は当初から自明の前提であった...このような状況が変化してきたのは...<黒人の公民権運動などの人種問題、エコロジーの問題、そしてベトナム戦争の泥沼化に直面した>...1960年代であった - 中立とは何か Further, the discussion of 事実 can be extended to 主観 and 客観, just like Weber's 方法論. 価値自由を論じる時の一つの論点は、価値自由な学問が個人の決定・決断を拘束する力をどれくらい持つと考えるのかという点にある。学問によって政治的な決定・決断の余地がかぎりなく"一択"に狭められると考えるか、あるいは学問は決定・決断を前にしてほぼ無力だというくらいに、非合理的な"飛躍"を強調するのか - 中立とは何か And this can be discussed in a "Historical" context as below. 歴史家と歴史上の事実との関係を吟味して参りますと...歴史を事実の客観的編纂と考え、解釈に対する事実の無条件的優越性を説く支持し難い理論の難所と、歴史とは、歴史上の事実を明らかにし、これを解釈の過程を通して征服する歴史家の心の主観的産物であると考える、これまた支持し難い理論の難所との間、つまり、歴史の重心は過去にあるという身方と、歴史の重心は現在にあるのだという見方との間であります - 歴史とは何か With the above being said, he generalizes as below ... 歴史家の陥っている窮境は、人間の本性の一つの反映なのであります...人間というものは、決して残りなく環境に巻き込まれているものでもなく、無条件で環境に従っているものでもありません...歴史家と事実の関係は平等な関係、ギヴ・アンド・テークの関係であります...歴史家というのは、自分の解釈にしたがって自分の事実を作り上げ、自分の事実にしたがって自分の解釈を作り上げる不断の過程に巻き込まれているのです - 歴史とは何か ... which I found is very similar what Richard Power's novel is about. パワーズの描く世界にあっては、人間は世界を作る存在でもあり、世界によって作られる存在でもある。対象が一枚の写真であれ、一人の他人であれ、第一次世界対戦であれ、我々はつねに共犯関係に巻き込まれ、つねに共犯関係に追い込まれている。世界を解読するたび、我々は自分というファイルを更新している...こうした考え方を通じて、読み手は、自分が世界とどうかかわったらよいのかについてのレッスンを受けることになる - アメリカ文学のレッスン And may be this blog is about me trying to understand myself better in a way as described below, trying to figure out how I'm engaged and should engage in this world. 読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かにされます。書けば書くほど、私が求めているものを一層よく知るようになり、自分が見出したものの意味や重要性を一層よく理解するようになります - 歴史とは何か 本にしても、絵にしても、音楽にしても、旅行にしても、自分と世界との関係を考え直すという上記のような意味合いでは、どれも本質的には同じなのかなと思い始めています。なお、カーネルを読む面白さは別です笑。 For those who somehow found this blog, please not that this blog is not intended for anyone but myself. So I'm not really paying to attention to English, and might occasionally be writing in Japanese whenever I feel having trouble bringing English to "myself". Just like how Bantu should be brought to Shakespeare but not the other way around. 翻訳とは、移植したいという渇望とは、シェークスピアをバンドゥー語に持ち込むことが肝心なのではない。肝心なのは、バンドゥー語をシェークスピアに持ち込むことなのだ - アメリカ文学のレッスン Other than my poor English, I'm sure there are inaccuracy and misinterpretation of how I read the books. It would be nice to be pointed out those mistakes. Thanks!