8/19/2025 彼ら<ガルブレイス>は人間とモノとの関係や人間と自己との関係がごまかされ、曖昧にされ、操作されていることを - モノと同じようにしてこの神話自身を消費しながら - 示そうとやっきになっている - p108 How the view differs from Galbraith. この<ガルブレイスの>分析の観念的な人間学的仮設が問題なのである...ガルブレイスによれば、欲求は完成されたモノとの関係においてあらかじめ狭く特殊化していて、あれこれのモノに対応する欲求しか存在しない - p103-106 Galbraith's view rephrased. 経済学のテキストブックが重視する消費者主権 - 自らの足で立ち知性と理性を持ち、そして行動する市民社会の中の個人からなる消費者は、貧しい時代を背景にした通念にすぎないのである。"通念の的は現実"であり、その現実は大衆社会である。知性と理性を持ち自立した個人が作り上げる社会は、西欧知識人の理想の中にあるものであった - p106, ガルブレイス - アメリカ資本主義との格闘 Here's the book's view. 欲求はシステムの要素として生み出されるのであり、個人とモノとの関係として生みだされるものではない - p103-106 Which is as explained? いかなる価値といえども個的存在ではありえ得ず、記号は集団<体系>の容認によってしか即自的な価値を持つには至らないであろう...個人は個人としてはどのような価値を制定することもできない - p66, ソシュールを読む 8/19/2025 あまりに抽象的なものが選択される結果、グランドセオリーの実践者は、必然的に観察のレベルまで降りてくることができない...彼らの"類型論"、そして類型化の作業は、_目の前にある問題_を体系的に定義し、問題解決につねげてゆくことができない - p68, 社会学的想像力 異なるレベルの抽象度の間を、わかりやすく明晰に、行き来すること - p70, 社会学的想像力 8/23/2025 20世紀前半の歴史の激動の時代に生まれ合わせて生き方を模索することになり、社会主義革命による社会の変革をめざした青年が、どのようにして"歴史"とは対照的な"構造"の探求者として自己形成することになったのか。そこには、自分にとって見慣れた歴史に呪縛された世界を脱却して、異なったものへと常に思考するレヴィ=ストロースのある一貫した姿勢が見て取れるように思える - p25, 闘うレヴィ=ストロース Given above, below makes more sense. "構造"とは、いわば"変われば変わるほど変わらないもの"という逆説的なものなのだという点である。それは"変われば変わるほど変わるもの"、レヴィ=ストロースの言葉を使えば、変化することで"崩壊"に向かう"歴史"とは対照的な何かなのだ - p25, 闘うレヴィ=ストロース And I like the way he lived haha. Its something I need to think about. レヴィ=ストロースが社会主義の運動にかかわっていた青年期から、驚くべき活動力で、いわば二足の草鞋で二つの人生を並行して生きていたことである。これからたどってゆくとおり青年レヴィ=ストロースは、学者としての修行をするかたわら、日々勤勉な活動家としての生活を送り続けていた。それはたとえば少し年長のジャン=ポール・サルトルが、サンジェルマンのカフェの常席で原稿を書き、束縛を逃れるためにホテル暮らししたという、擬似ボヘミアン的な生き方とはまったく異なったものだった - p25, 闘うレヴィ=ストロース 表意作用を形成することを_可能にする手段_として、"音素"と"インセストの禁止"は同じみたいな? 固有の表意作用は持たないが、表意作用のを形成する手段となる音素と同様、インセストの禁止は、別個のものと見なされる二つの領域のつなぎ目をなすとわたしには思われた...形式としての音素が、言語学的コミュニケーションを打ち立てる普遍的手段として、あらゆる言語に与えられているのと同様、インセストの禁止は、その否定的な表現だけに限るならば、普遍的に存在し、これもまたある空虚な形式を構成する。空虚であってもこの形式は...これを通して集団相互のコミュニケーションが生じるためには不可欠なのである - p126, 闘うレヴィ=ストロース レヴィ=ストロースの以下の歴史観について ... こうした人々の多様な生き方が、歴史的変化の結果としてだけでは説明も理解もできないこと、ましてや彼らが何を考えて生きているのか、いいかえれば世界のなかでどう位置づけていきているかは、歴史の視点からだけでわからない ... 多様な生き方は、異なる構造における"変換"関係の違いであり、歴史的変化によるものではない、みたいな 音素の実在は、その音的個性のうちにあるのではなく、音素が互いに結ぶ対立的、消極的関連のうちにあるのと同様、婚姻化規則の表意作用は、諸規則をばらばらに研究してもとらえられず、それらを互いに対立させない限り浮かびあがってこない...そうした構造のあいだには歴史的変化とは質を異にする"変換"関係が見出される - p128, 闘うレヴィ=ストロース 8/23/2025 トゥキディデスの軍事行動に向いている人・向いていない人/デュルケームのいう一体感を、ベビーブーム世代の台頭による政治思想の多様性の低下(時代背景に依る)が助長して、最近の"抗議"をもたらしているという展開は面白いと思う。多様性の低下が、学びの偏りにつながってしまうと言う話は気になる。 政治的に均質な学科で学ぶ学生は、左寄りの見解から引き出された著作や調査研究に多く触れることになるため、平均して、"左寄り"の真実に行き着きやすくなる...保守派、政治、ひいてはアメリカに関する多くのことについて、正しい理解が得られないまま卒業することになる - 傷つきやすいアメリカの大学生たち ここでいう直感はなんとなく分かるかも。 関係がいかに生成するかを明らかにするのに、音あるいは自然の形式化による意味への"移行"そのものを、移行の方向にそっていわば前進的にとらえる音韻論のみがある無意識のリアリティをとらえることを可能にするのであれば、生成した後の意味の側からの意味の発生に遡行する方法には常に幻想がまぎれこむ余地がある、と考えられる点である。レヴィ=ストロースは音韻論が、既存の人文科学にはない、幻想を克服する方法論的な豊かな可能性をはらんでいると直感したと考えられる - p148, 闘うレヴィ=ストロース この直感をベースに幻想を解体する作業には興味がある。 音韻論に対比される親族論は、論理的な必然として、交換という現実に対する遡行的幻想としての神話とは何か、という第二の主題を導き出すのではないだろうか..."野性の思考"において、より精緻で徹底したかたちで構造による幻想の解体が試みられる...サルトルの歴史哲学が幻想として俎上に載せられることは後にたしかめよう - p150, 闘うレヴィ=ストロース 8/27/2025 25年くらい前は、傑出した書き手が、社会の本質と機能を一般を考察する一環として、高い学識を基礎に、世論"それ自体"に特化するのではなく、広い歴史的、理論的、哲学的な観点で研究を行い、論考を執筆していた...<抽象化された経験主義によって>、そんなどうでもいいようなデータをいくら積み上げても、納得できるような何かを提供したりはしないのである - p101, 社会学的想像力 The above somehow reminds me this. 学問の名のもとで価値の問題が蔑ろにされることを、ウェーバーは批判した。これに対して近年の因果推論の研究では、バイアス・フリーな、中立的な研究が求められる。そして実際、方法論のテクストでは"中立的"ないし"非イデオロギー的"という意味での科学的性格が強調されている。価値自由ないしウェーバー的な問題関心が考慮されなくなる程度に応じて、科学の非党派性・中立性への信㤗はそれだけ強くなっているようにみえる - p207, 中立とは何か As well as this, is it too much? ソシュールが批判の対照としたものは、多様な質でしかないものを、量的な差異、数量に還元してしまうという、近代科学一般がもっている避けがたい傾向です...ソシュールが批判した19世紀の言語学においてもすでに"客体としての自然を対象にする"と考えられていた科学から借りてきた語彙ないし言説が使用されていました。その借り物というのは語彙に限らずその底にある思考自体でもあったことを忘れてはならないでしょう - 109, ソシュールを読む もしコトバが実態的な存在であれば、物理的な尺度で区切っていくことも可能かもしれないが、そうではないために、言語の本当の仕組みと文法学者の論理が一致しない。言語の本質は実体論的思考に立つ限り見えてこない..."コトバほど社会的なものはない故にコントやデュルケーム的社会学ではその本質が見えてこない"というパラドックスをふまえて、いまだ存在していないとはいえ、<記号学>の名の元に存在すべき学を提唱しています。その対象は、時間・空間的に捉えられる文化現象のすべてであって、人間が自らの生きる世界を恣意的に客体化するため、本当の<生きられる世界>が隠蔽されて見えなくなっている状況を、コトバの本質に光を当てることによって解明し、乗り越えの方向を探ろうとするものなのです - p113, ソシュールを読む 8/28/2025 This line ... 記号は自らの内在的な価値によってではなく、ちょうどチェスゲームのように、自らが占める相対的位置によって働いているのだ - p132, ソシュールを読む ... reminds me of these. パワーズという作家の大きな特徴は、世界を思い描く上で、意味づける自分と意味づけられる対象、自己と他者、という非対称的な関係をその根底に据えるのではなく、自分と対象との関係がまずあって、こくこくと変化していくその関係から、そのつど自分と対象とが分泌されていく、というふうに捉えていることである - p180, アメリカ文学のレッスン ルーマンのオートポイエーシスの理論は...人間の意識的な統御の及ばないかたちでコミュニケーションは次々と接続され、自律的に秩序を形成していく - p552, 社会学史 8/31/2025 ソシュールにとっては、言語は社会的産物であると同時に歴史的産物以外の何物でもありません。つまりは全くの人為であり、共同幻想としての恣意的価値体系なのです。だからこそ、すでに述べたように、言語や文化は、それが歴史的なものであればあるほど、十九世紀的な歴史学の方法を用いてはならず、それが社会的なものであればあるほど、デュルケーム的実証主義社会学の方法では解明されない、という逆説が生まれます。これは、記号学にやってしかその本質を捉えることができないものなのでした - p177, ソシュールを読む 上記で言うところのデュルケーム的実証主義社会学の方法では解明されないについて、言語の本質を捉えるうえでは役に立たないということのはず。 ただし、方法論的には共時態の解明の方が先行するべき。 通時的事象に対しては、共時的事象に対する以上に、多くの留保づきで<法則>なる語を使わねばならない - p176, ソシュールを読む 9/3/2025 われわれは自然にこれ<観念>を実在に置き換え、これを思弁の対象とする方向にさえ向かってしまうのだ。物を観察し、描写し、比較する代わりに、自分が作った観念を取り上げ、分析し、相互に結びつけることで満足してしまう...ベーコンの言葉で言えば、通俗観念または予断であり、これがあらゆる科学の基礎に置かれ、本来事実が占めるべきその場所を奪っている - p70, 社会学的方法の基準 上記の下りは、ガルブレイスの通念の話に通ずる。 経済現象や社会現象は近づきにくく、あるいは少なくとも近づきにくいものにみえ、またあることとないことを区別するのも難しいような性質のものなので、物理現象からは得られないぜいたくを人に与えることになる。つまり、人はかなりの範囲内で好きなように考えることができ、この世界について勝手な見解をもつことが許されるのである - p22, ゆたかな社会 上記のガルブレイスの経済学に関する通念の下りと以下のデュルケームの社会科学における観念の対比。 自らの力だけで自らの欲するがままに世界を組み立てることができる...自然の諸科学でさえこのような状況だったのなら、社会学も同じ状況に陥ったのはなおのこと必然であった - p70 ブリコラージュの話にも通ずる気がする。 神話的思考はブリコルールであって、出来事、いやむしろ出来事の残片を組み合わせて構造を作り上げる - p28, 野性の思考 彼らは世界のあらゆるものを自らの福祉に欠くべからざるものと考えるので、自然物の分類が宗教的研究の重要問題になる...実際、神話や儀礼を正確に解釈するためには...動植物の名前が出てきたり、あるいは動植物の部分や死骸が直接に用いられておれば、それらの同定が不可欠であることは日に日に明らかになりつつある - p56, 野性の思考 9/6/2025 以下で言う硬直化してしまう原因は、"かくあるべし"という基準がない<恣意的>ということは、変革の方向が見出せないからで、変化_できる_のは恣意的であることから変革の方向という"かくあるべし"という基準がないから。みたいな ソシュールは、これまで相互依存の形で捉えていたラングとパロールの弁証法を可能にするものとして、時間というファクターを加え、ラングは恣意的であるがゆえに硬直化し、恣意的であるが故に変化するというパラドックスに光をあてました - p246, ソシュールを読む 消費社会の神話と構造におけるモノと以下で言うコトについて、シーニュは自由ではない。 それが表している観念との関係においては、いかなるシニフィアンも恣意的であり、自由に選ばれたかの如くであり、他のシニフィアンに代えられるかのように思われる。それを用いるべく運命づけられている人間社会との関連においては、シーニュはいささかも自由なものではなく、課せられたものである...文化の構成基準は恣意的必然です...コトの世界の必然と言ってもよいでしょう...この恣意的必然をソシュールは"自由の持つ非自由性という矛盾"と呼びました - p241, ソシュールを読む 続けてモノ(コト)とものについて。 シーニュが全体としては+を呈しているだけに、物とモノが混同されフェティシュとなりやすい...つまり関係が実体として、非自然が自然として、恣意的価値が即時的価値として、一言で言えばコトが物として、私たちに意識されるのです - 256, ソシュールを読む 9/9/2025 現地人たちの"機能化"と ... 現地人たちの観察は非常に精密でかつ微妙なので、体系の中で各要素に与えられる位置は、変種ないし亜変種レベルで規定するような形態上の特徴や行動にかかっている...種、変種ないし亜変種のそれぞれは、象徴体系の中で、いろいろな異なった多数の機能を果たすことができ、それらの機能のうちのいくらかのものだけが実際に利用されるのである。これらさまざまな可能性の全容はわれわれにはわからない - p76, 野性の思考 ... 現代における"機能化"。精密かつ微妙な観察に基づく"機能化"の方がマトモかも笑。 あるモノの"機能化"は、いたるところでその客観的機能の上に覆いかぶさり、これに取ってかわろうとする一貫した抽象的作用なのである("機能性"は使用価値ではなくて、記号としての価値である) - p133, 消費社会の神話と構造 9/11/2025 レベルが非常に異なったものの間<文化と自然>でもこれ<"トーテム"型の考え方と信仰>によって変換が可能になるのである...トーテミズムは何よりもまず両者の対立を超越する手段(もしくは希望)なのである - p107, 野性の思考 現代における両者の対立を超越する手段が科学なのだとすれば、以下の批判もわかる気がする。 オルテガの言う通り、自己懐疑の回路を自らの科学・合理主義によって閉ざされてしまった知識人こそ、まさにこうした大衆なのである - p302, ソシュールを読む 以下に通ずるようにも思える。 ウェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神"の末尾部分で...近代社会を激しく糾弾したのは...そのような社会に適合して生きる近代人が、実際には倒錯的なものでしかない自らの精神的態度<形骸化した"禁欲">を合理的なものとして誇っていることへの憤りゆえであった 9/20/2025 野性の思考の言うトーテムとカーストに対応する? 人間は、自然に内在する存在から自然を対象化する存在へと自分を転換させ、また社会に内在する存在から社会を対象とする存在へと自分を転換させる。どちらの転換も、"媒介された構造"を獲得することによって実現される - p214, 現代社会の存立構造を読む 疎外<->収奪の関係について述べた以下について、進化論を持ち込んで自由競争を肯定するアメリカ社会の態度みたい。 この一者が余剰生産物を独占し、享受すること自体が、共同の自己享受であるとも解し得る - p243, 現代社会の存立構造を読む バビロンのくじが長い年月をかけて成立した過程そのもの? 誰が収奪する支配者になるのか?もとを正せば、それはささいなことをきっかけにしているのだろう..."はじめはわずかな窪みに水が流入して穿つように"、つまりささいな違いが雪だるま式に拡大して、素の支配者や子孫が、圧倒的なカリスマや権威をもつかの幻想が定着することになる - p244, 現代社会の存立構造を読む <疎外⇔物神化>関係をもたらす論理は、社会学の方法論に対して新しい提案を含んでいる...二つの立場<方法論的集合主義と方法論的個人主義>は、社会学史上二人の巨人にそれぞれ対応させるのが、学説史の常識となっている。つまり、前者がデュルケームの、後者がウェーバーの理論的な立場であった - p257, 現代社会の存立構造を読む 9/24/2025 This ... 肉体は処女地や植民地を開拓するように、あるいは鉱脈を掘り当てるように"優しく"開発し、幸福、健康、モードの世界で大流行の野性美などの目に見える記号を肉体から浮かび上がらせることになる - p219, 消費社会の神話と構造 reminds me of this line. 文明世界が自分以外の世界すなわち植民地を支配しようとして作り出した関係の構造が、文明世界そのもののなかに凝縮して反復されたのが世界大戦 - p121, 闘うレヴィ・ストロース オセージ族の論理の話 - p169, 神話と構造 神話それぞれの論理に基づいた論理的な背景がある。神話それぞれの論理に則っている以上、論理にそれ以上も以下もない(以上・以下というのはナンセンス)。 面白さは、神話の論理におけるその行いの論理的な背景を見出す過程にある(ちょっと理解しえない消費社会のそれも然り笑)